3・11直後に避難マニュアルをまとめ、備蓄品の入れ替え等実施してまいりましたが、5年という月日は、いつの間にか防災意識を鈍らせ、対岸の火事とさせていました。
当時のブログを読み返し、真剣に取り組んだ日々を思い起こしています。当時は津波の恐ろしさに、避難訓練も津波を想定しての訓練をしていました。
今回の熊本大地震は、活断層の上に位置するここ庄内平野もいつ大地震に見舞われるかわからない事を思い起こさせてくれました。1894年の酒田地震では「烈震」酒田市内の80%が焼失したと言われています。
道路は寸断、家も電柱もブロック塀も倒壊、車を使っての避難など出来ない場合、どうするか。今回の熊本地震の大災害に学び、全員で取り組んでいきたいと思います。
あらためて今回の熊本地震で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げ、今なお被災地でご不自由な暮らしの中におられる皆様に心よりお見舞い申し上げます。
連日の大地震の報道に言葉を失う毎日です。
父母のふるさとである熊本。水俣で生まれた私も、被災の現状が信じられません。佐賀の妹に14日の真夜中電話するとおびえた声で「大丈夫…じゃないよ…今から避難しようかと相談中よ。人形ケースが床に落ちてガラスが粉々に…」熊本から離れた佐賀でさえそんな被害が、と思うと、どうか無事でいて、と祈らずにはいられませんでした。
思い出すのは5年前の3・11です。
凍てつく夜、一晩中、地震警報の音に何分おきに飛び起きる。ラジオから『一つの町がすべてなくなっております』と想像もできないアナウンサーの言葉…横になっては目を見開いて「明日の朝」に思いめぐらす。「寒い、寒い…」Aさんの嗄れ声に、ありったけの毛布や布団をかけても凍えそうに冷たい闇夜。いつになったら電気が点くのだろう。もし何日も停電が続いたら…。朝食はどこまで準備ができたのだろうか…。朝になったら反射式のストーブを集めて暖を取らなければ…。ひっきりなしの地震警報音。
ベッドの下に靴を置き、コートやアノラックを着たまますぐ逃げ出せるようにして丸くなって眠る利用者さん達の姿を見て回る。すぐ逃げるって…どこに?どうやって?この凍てつく寒さの中を?歩ける人などいないのに…。第一、今、昼間のあの地震より強い地震が来たら、この建物は大丈夫だろうか?車で逃げることって出来るんだろうか?
車をすぐに出せるように3台並べて路駐させ、ありったけの知恵を絞って手順を考える。運転手は、1,2,3…。乗せる順番はAさん、Bさん、Cさん…。行く先は高台のかんぽの宿。最後まであきらめたらダメ、利用者さん達を守り抜く使命がある、とブルブル震えながら気力を奮い立たせる。絶望感と孤独の中で、心臓が早鐘のように耳の中で鳴り続けた夜だった。
しらじらと明けていく12日の朝、自宅で調理したスープを持ち込んで朝食を整えてくれたマロンさん(調理員さん)達の活躍が、涙が出そうに嬉しかった。
マロンさんは、今日もわかみやの郷のお食事をを支えてくれています。
ほうれん草のお浸し
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